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入来花水木会 | |||
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日 時 : 2023年11月19日(日) 14:00 ~ 16:00 場 所 : 薩摩川内市入来文化ホール 参加者 : 191名 |
主催:入来花水木会、 後援:薩摩川内市・薩摩川内市教育委員会 後援:南日本新聞社 (薩摩川内市市民活動支援金採択事業) |
米国イェール大学の朝河貫一博士の論文である『The Documents of Iriki』いわゆる『入来文書(いりきもんじょ)』の翻訳者である横浜市立大学名誉教授 矢吹 晋先生を講師にお招きして、上記の通り『入来文書講演会』を開催しました。薩摩川内市入来文化ホールに、200名近くの方々にお越し頂き、盛況に実施することができました。講演会の後、ホテルグリーンヒルで23名の方にご出席頂き、懇親会を開催しました。 |
会場の薩摩川内市入来文化ホール | 受付の様子 | |
入来文書講演会の講演舞台 | 主催者代表挨拶の入来院久子会長 | |
矢吹晋先生の講演が始まりました | 熱弁の矢吹先生 |
200名近くの方々にご来場頂きました | 質疑にお応え下さる矢吹先生 |
矢吹先生を囲む懇親会 | 懇親会には23名の方がご出席下さいました |
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朝河貫一と入来文書 (1)朝河貫一博士を入来文書の著者だと知っている人はもちろんいるが、これはほとんど例外であり、日本全国的にみると、朝河貫一博士の名前あるいは入来文書の名前を知っている人はわずかである。 (2)「入来で語る数奇な入来文書の運命」というタイトルをかかげたが、入来文書は実際ふしぎな文書である。 入来盆地は川内川で外界と連なる (1)資料1ページの左は鎌倉の地図で、右は「The Documents of Iriki」(入来文書)の冒頭に描かれている「入来およびその近傍」の地図である。 (2)私の大学(横浜市立大学)は、鎌倉のすぐ近くにあった。そこに30年間勤務し、鎌倉を学生たちと歩いたり、海にでたりして、鎌倉の地形がかなり分かってきた。そのおかげで、源頼朝が鎌倉に幕府をつくった当時の気分といったものが、自然と頭に浮かんでくる。鎌倉は回りが海で、後は全部が山に囲まれている。 (3)その感覚で入来をみると、入来は鎌倉に似ている。まわりを山に囲まれているけれども、川内川の支流(樋脇川)が川内川につながり、物流のルートが確保されている。こういう地の利があったからこそ、渋谷氏の下向から明治維新に至るまでの500年間独立を守り切ることができ、史料が遺った。 入来文書はどこがどのように優れているか (1)入来文書は、日本に存在する家族文書のなかで最大のものではないが、入来文書をしてきわめて注目すべき史料たらしめているいくつかのまれにみる条件がある。それは❶史料の多様性、❷文書から跡づけできる制度的発展の代表性、❸文書がカバーする時間的長さ、である。 (2)入来文書は、❶単一の領主の家系のものであり、❷それに小さな領域のものである。小さな領域の場合のほうが、調査はより容易でより徹底できる。これらの条件は入来文書が理想的に満たしてくれる。 (3)本書(The Documents of Iriki)に収めた史料は、南九州の小さな部分を継続して統治した単一の領主家系の全経歴をカバーする。領域と人間は限られているが、この史料の実体は、日本の封建社会全体を範囲としている日本全体の封建制発展の典型である。(矢吹訳14頁) (4)ここで、ついに編者(朝河貫一)は、日本の封建的成長の真実を世界にもたらす願望の文書を発見した。 サムライが清色城を守り、城がフモトを守る (1)フモトは島津藩の下位領主(入来院)のサムライあるいは地頭の外城サムライの居住区である。今日もこの言葉は三国(日向大隅薩摩)の多くの共同体において適当な名として用いられている。 (2)フモトの景観は多かれ少なかれ、武家屋敷とは異なる形式の家が建てられ、店が開かれる中で(明治以降)変化しつつあるが、入来のフモトは最も変化が少ない。 (3)フモトはもともとは丘や山麓を意味する漢字(麓)で書かれた。このことはサムライの居住地の起源が守るべき城の下(麓)に建てられたことを意味している。サムライは城を守り、城がサムライの家族を守った。しかしながら、フモトの正確な起源の意味(なぜフモトと最初に呼んだのか)は確定できない。 (以上、矢吹訳58頁) 明治の新時代に、入来の子孫たちは、川と丘に囲まれた古い共同体に留まった (明治以後も)多くの者は、代々の領主が600年以上も守ってきた川と丘のループに囲まれた古い共同体(天然の要害)に留まった。今日古い城は跡地のみが記憶され、その周辺には学校と村役場が建っている。 (矢吹訳42頁) 朝河に深い印象を残したフモトの風景と侍の子孫たちの礼儀正しい生き方 (1)時代を通じて自然の恵みをたえず与えてくれた清色の流れは、変わっていない。国をとりまく田園生活全体と同じように、伝説と記憶および青々と繁る植物によっておおわれた丘と平原は、現代の性急な開発によって汚染されてはいない。 (2)入来村は街路と家々の様相を失っていない。フモトは徳川時代のものを残している。道の両側には低い胸壁の上に生け垣か簡単な垣根を付した家が並ぶ。その上にはサムライの藁葺屋根の古い平屋がある。 (3)どの家も開かれているが、前向きにではなく、道と平行に開かれ、そこから入る。防衛のためであることは疑いない。垣根の横から入る二つの門には、第二の出口の前に、直角に屋根がある。 (3)訪問者にとって最も魅力的なのは、サムライの子孫たちの洗練された方言と礼儀正しく威厳をもった理想的な作法である。これらは無意識の生来の、人々の生活にしみ込んだ長い時代の文化の標識である。 (4)それらは入来の人々の特徴のなかで、編者(朝河)にとって短い接触のあと、その影響力を極端に忘れがたくさせている感情である。 (以上、矢吹訳42頁) 朝河の入来訪問時のフモトの佇まいと武士の作法 朝河は入来訪問に際して数百年にわたって形成されてきた武士の村とそこに生きる人々の物腰に深い印象をいだいた。 戊辰戦争で没落した二本松の運命を父から聞いて育った朝河にとって、それは武士の社会を彷彿させる石垣や小路であった。 似て非なる日本の庄とヨーロッパのマナー(中世の領主の所領)~連作可能な水稲 vs. 小麦休閑地(三圃)制による地力回復
(1)ヨーロッパの農業と日本の農業の決定的な違いは、日本の農業は水稲耕作であり、何十年と連作が可能である。ところが、ヨーロッパの乾地農業は、2~3年すると土地がやせてきて使えなくなる。だから休閑地にしたり、牧草地にしたりして、ローテーションが必要になる。 (2)ローテーションは農民が勝手にはできない。全体を考えて領主がやらなければならない。したがって、ヨーロッパの場合、領主は現地に住んでいた。現地に住んでいて、今年はこの土地は休閑地にする、この土地は牧草地にすると、領主が命令する。すると、領主のもとで働く農民は、いわれたことをやるしかない。自由がない(農奴)。 (3)ところが日本の水田の場合には、小作人でも、自分で耕すところは決まっているから、虫ができてきたとなったら、夜でも朝でも行ってとるし、雨が降りそうだとなると水の管理をやる。結局、小作人や雇われた里子でも、経営者のように水田を管理していた。だからそういうところでは奴隷などいるはずがない。というのが朝河の議論である。 数奇な入来文書の運命 〔1〕黙視された朝河の歴史学 (1)朝河の上述の歴史学は史料そのものをきちっと読んだうえでの歴史学なのだけれども、戦後に流行した史観によって黙視された。ヨーロッパに農奴がいたのだから、もっと遅れていた日本にもいたはずだ。ましてや入来は九州の南の果のへき地だから、その迫田や谷田には当然農奴がいると思い込んだ史観は、朝河を拒否した。 (2)たとえば、1961年4月上旬に科学研究費を得て、わざわざ実地調査に入来まできた永原慶二(一橋大学)は、朝河の「The Documents of Iriki」を意識していたはずなのに、その報告論文では「The Documents of Iriki」には一言も触れずに、朝河の論議を黙殺している。永原は、薩摩は南の辺境だから奴隷がいたに違いないと思い、それを調べに来たのである。 (3)戦後に流行した史観からすると、農民が自分の意志で働いていたなんてダメだと拒否された。 〔2〕朝河の10数年の成果を史料の海に埋没させた復刻版 (1)イェール大学出版部から「The Documents of Iriki」が刊行されたのは1929年であったが、日米戦争敗戦後10年目に、東京大学史料編纂所の専門家たちをメンバーとする日本学術振興会によって復刻版が刊行された。 (2)復刻版の刊行自体は望ましい企画だが、同時に行われた「新訂版・入来文書」の編集・刊行は、朝河の10数年の成果を史料の海に埋没させ、朝河の著作権を侵害する愚挙であった。 (3)朝河が入来院の保存された大量の巻物から選び抜いた255篇、それらを整理して155篇に史料番号を付したのが「朝河版・入来文書」(すなわち、TheDocuments of Iriki)であるが、「新訂版・入来文書(邦文)」が一人歩きした。(なお、英文のThe Documents of Iriki そのものの新訂版の編集・刊行はされていない。) (4)朝河が繰り返し強調したのは、史料の海から日本史の発展を知るうえで不可欠の史料群を、❶選び抜き、これらを❷英訳し、詳細な❸注釈を付す作業であった。 (5)しかしながら、朝河の意図は理解されず、無視された。東京大学史料編纂所の専門家たちは、実際ある入来古文書の数と比べて添付されている史料が少ないことに気づき、朝河は添付する暇がなかったのであろうと思って添付史料を増やしてしまった。(6)文書の読み方を解説した史料解題と詳細な注釈に朝河の狙いがあることに、編集委員会が気付かなかった。加えて、朝河の編年体順を本家・分家、所有者別に並べ変えた。 (7)英文を読まないで勝手にやったということである。 (8)英語の壁が邪魔して「The Documents of Iriki」は、ほとんど読まれなかったという。少数の読者はいたはずだが、それに基づいて朝河の日本史像を論じた者は皆無であった。外国で評価の高い日本人の著作が国内でも受け入れられるケースは多い。しかしながら、朝河の場合は例外であり、無視された。
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以上 |
補遺 | |
書籍紹介 | |
「入来文書―The Documents of Iriki」(翻訳本)、「貞子の語る入来文書」および「マンガで読む歴史学者・朝河貫一」という3冊の書籍の紹介をさせて頂きます。 | |
「入来文書―The Documents of Iriki」(翻訳本) 「The Documents of Iriki」の初めての翻訳本で、矢吹晋先生が2005年8月に出版されました。今回の矢吹先生の講演に次のようにありました。 ― 英語の壁が邪魔して「The Documents of Iriki」は、ほとんど読まれなかったという。少数の読者はいたはずだが、それに基づいて朝河の日本史像を論じた者は皆無であった。外国で評価の高い日本人の著作が国内でも受け入れられるケースは多い。しかしながら、朝河の場合は例外であり無視された。― もし、当時翻訳本があれば、状況は違っていたかも知れません。そういう意味で大変貴重な翻訳本になっていて、ネット販売ではプレミアムがついて定価よりも高価になっています。 この本の執筆の過程について、矢吹先生は講演で次のように触れられています。 ~ 月1回の朝河研究会をやっているうちに、ある日入来院貞子さんが現れて自己紹介をされた。そして、The Documents of Iriki を翻訳したいのだけどもと言い出した。そのとき実は、私は半分ぐらい訳していて、そう言った。訳はできたのだけども、いちばん困ったのは、地名とか人名とかだった。地名とか人名とかが膨大で、朝河は5万枚とか十万枚とかカードをつくって10年ぐらいかけて分析した。リストをつくって貞子さんにメールで送って、調べて下さいといって、教えてもらった。例えば、八重山(やえやま)があるけれど、あれは、昔は「はえやま」と呼んでいた。だから、朝河は“haeyama”と書いている。これは間違いではなく、そう呼ばれていた時があったということである。それと似たようなことがたくさんでてきた。そうして、私の翻訳本ができた。そうこうするうちに今度は貞子さんがこれを読んで、入来院の当主夫人からみて印象深い話をまとめて本に書きたいということになった。貞子さんはその頃同人雑誌に書いていたが、ちゃんと書きなさいとすすめた。本のタイトルは私が決めるからといって、「貞子の語る入来文書」としたら、その通りのタイトルで貞子さんの本ができた。(以上、2022年11月20日(日)入来文書学習会の矢吹晋先生の講演より)~ 「貞子の語る入来文書」 上述の矢吹先生の講演内容にあるように庶流入来院家当主夫人だった入来院貞子(1933年~2011年)が書かれた本。帯文に、『入来文書』が教える日本の封建時代の歴史! 清貧ともいうべき山村入来村に650年続いた入来の人々につつましくも礼儀正しい対応が目に浮かびます。(文中より)とあります。 この本もプレミアムがついて、ネット販売価格は定価より高価になっていますが、入来麓観光案内所(TEL:0996-44-5200,FAX:0996-44-5220)と茅葺門邸(入来院重朝宅、薩摩川内市入来町浦之名130番地)では税込み2,000円で販売しています。 |
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「マンガで読む歴史学者・朝河貫一」 今年(2023年)10月に発売されたばかりの本。次のように紹介されています。 ~ 直木賞作家・安部龍太郎氏推薦! 朝河貫一は日米戦争回避のために、ルーズベルト大統領から昭和天皇への親書案を書いた熱血漢でもあった――。日本人初のイェール大学教授となり、世界平和に尽くした朝河貫一の生涯をマンガと文章でたどる。また著名な学者がコラムを寄稿‥…矢吹晋(横浜市立大学名誉教授)/甚野尚志(早稲田大学教授)/浅野豊美(早稲田大学教授)~ また、著者の安藤智重氏については、1967年、郡山総鎮守・安積国造神社安藤家の生まれ。安積高校、早稲田大学教育学部卒。安積国造神社第64代宮司、安積幼稚園理事長。村山𠮷廣氏に漢学を学び、安積艮斎を研究。朝河貫一博士顕彰協会副代表理事などとあります。 |
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以上 |
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