「入来薪能」とは、故入来院貞子さんが代表を務めた入来花水木会(新生入来花水木会に対して、いわば旧入来花水木会)が、1999年(平成11年)から2010年(平成22年)までの間に7回開催した薪能をいう。夫で庶流入来院当主の入来院重朝さんが定年退職されたのを機会に、1994年(平成6年)重朝さんとともに東京から入来に移り住んだ貞子さんは、先祖の渋谷氏が関東から下向して
750年になるのを機に、町おこしに何かしたいと考えていた。そんな折、県会議員をしている人から『鹿児島には能楽堂がない』と聞いたのを思い出し、脳裏に、ふと『薪能』という語が浮かんだ。というのは、入来院夫妻は、能楽観世流シテ方の若松健史先生(重要無形文化財総合指定保持者で2010年9月に死去)に謡曲の指導をしてもらっていて、観世流の人たちを知っていた。頼めば来てもらえるのでは、と思って『入来薪能』の企画を思い立った。
資金も私的な負担が限界ぎりぎりのなかで、能に全く素人の地域おこしグループとその支援会の人たちの手づくりで1999年(平成11年)に第1回の入来薪能を開催することになった。何よりも心強かったのは、町の次代を担う若い実力者たちが支援会を作って、手足になってくれるということだった。彼らはイベントの実行にも手慣れていて、何よりも問題な駐車場や会場の設営など、具体的な手順はすっかりお任せできるということだった。しかし、『能』は鹿児島の人たちにはほとんど馴染みのない世界のもので、地域おこしグループのメンバーも支援会のメンバーも全員がまだ一度も能を見たことがなかった。
恩師で入来薪能の企画を引き受けて下さった若松健史先生が岡山の最上稲荷で薪能を開催するのを知っていた貞子さんは、実際を見なくてはと思い、岡山に見学に出かけた。費用節減のため、県議の奥さんに借りたワゴン車に乗り、平成11年8月17日朝7時、支援会の会長、音響照明担当、会場設営担当、舞台を作る大工さん夫婦とともに入来を出発、交代で運転しながら9時間かかって最上稲荷に着くと、大工さんはメジャーで舞台の高さを計ったり、音響係はマイクの所在を確かめたり、実地見学と調査を行った。このようにして、平成11年8月25日、東京から観世銕仙会(てっせんかい)一行の皆さんにおいで頂き、第1回入来薪能(演目『天鼓』、前シテ・後シテ、若松健史)が開催された。第1回が成功裏に終ったのを皮切りに、2010年(平成22年)までに7回の入来薪能が開催された。 |